山形・米沢の民陶窯元を訪ねて
山形・米沢には「成島焼」という民陶があります。
ルーツは、米沢藩の財政立て直しのためとして第9代藩主:上杉鷹山が興しました。
これまでの経緯としては、明治時代に一度廃窯し、大正時代に再興したものの再度廃窯。
そして、1975年より水野哲さんが萩や唐津での修行を終え、地元米沢へ戻り改めて「成島焼」への想いをはせ、作陶をはじめたのが「鳴洲窯」です。
私の母の生まれ育った土地でもある米沢でしたので、「成島焼」というのは子供のころよりよく耳にしていた言葉でもありますたが、当時は当然かもしれませんがへえ〜ってなんで全くといっていいほど興味も関心もありませんでした。
しかし、お店でも現在扱わせていただいている西の焼き物(島根・鳥取の民陶作品)をきっかけに全国の民陶窯元に興味関心がでて色々調べていると山形の「成島焼」を再び目にしたのでした。
そして、インターネット上の動画サイトにて現在の成島焼を継承している方がいることを知り、是非ともお会いしたい思いでありました。
その方が鳴洲窯:水野哲さんです。
それ以来ずっと行きたいと思っていたのですが、なかなか行くタイミングを取れずにいたのですが今回ようやく伺うことができました。
制作工房の隣にちょっとしたギャラリースペース
可愛い子猫がお出迎え
工房の前に転がっている何気ない丸太も近所の農家にいただいた「トチノキ」で薪として使い、その灰を釉薬に活用されるそうです。
そして、その脇に無造作に置かれていた石たちもじつは釉薬になります。
これら焼き物に使われる材料はすべてこの裏山で採れたものばかり
この土地は古代より良い土と石がとれたこともあり、縄文時代から人が住んでいたようで遺跡がたくさん出るようです。
水野さんはこの山に入り、材料になる土や石を手に入れ、ついでにキノコや山菜や薪を一緒に取ってきています。
「あそこには〇〇に適した土がとれるし、〇〇を作るときはあっちの山の土をとってくるんだわ」
ご自身のことを「山師」と呼ぶくらい山に精通しており、焼き物以外にもたくさんの恵みをいただいて生活している姿は本来の人が「生きる」姿を何なのかを考えさせます。
譲っていただいた鳴洲窯さんの焼き物たちと共に、水野さんが山から採ってきた「なめこ」もお土産にいただき、山からの「恵み」を沢山いただいき帰路につきました。
(後日、焼き物をご紹介〜)